市民はねじを巻く

市民はねじを巻くにようこそ。読書ブログです。今日も誰かのねじを静かに巻いています

社会宗教学の研究に関するインタビューを受けてきた

クリスチャン系の大学に通っている友人に、社会宗教学の研究に関するインタビューを受けてくれないか?と依頼された。普段は出来ない体験で面白そうと感じたため、二つ返事でそれに応じた。案の定、良い経験だったためブログに書こうと思う。なお質問内容には秘匿事項を含むため、ここで書く質問内容や回答した内容の一部は改定したものとします。

依頼主は、社会宗教学を研究されている博士。経歴の詳細は省くけど、現行の大学に移る前はイギリスに5年間住んでいたらしい。
 
今回僕が選ばれたのは、「関東在住の無神論者」ということだった。海外のK大学と共同で無神論者を対象にインタビューし、それを有神論者にインタビューした場合と比較するらしい
 
インタビューでは、宗教観についてや死生観について、自分の人生の指標についてを聞かれた。
 
「神を信じるか」、「死刑制度についてどう考えるか」、「宗教人についてどう思うか」、「超自然的な存在についてどう考えるか」など。他には「自分の考えが変わった出来事があったかどうか」、「人生の指標はなんですか?」「 あなたの軸はなんですか?」 と聞かれた。僕は合理的な選択と答えた。大学教授に合理的と答えるのは、なんだか矮小な気もしたが、その際は思いついたことを素直に述べた。
 
インタビューで興味深かった部分は彼らの「人生の情熱、人生を支えるもの」という部分についてだった。彼らは宗教をベースに考える。キリスト教の教えに則る生活。思想の延長には経典があり(延長というかベースなのか?)。指標があるのは難しい。
 
僕の人生を支えるのは、自分の信じるものである。僕にとっては、憧れた人の仕草や意見、好きな本で演出されている世界観について。人生で最も影響を受けたのはショウペンパウワーの考えについてだったな。ぼくは自分の考えが持てたときに最高に幸福を感じるし、生きがいを感じる。
 
「こうあるべきだ、というのと提案どちらですか?」 の質問にはハッとした。
 
多くの場合、ぼくがこうあるべきだと乗り出してまで何かを語ることは滅多にない。もしかすると全くないのかもしれない。それくらい、何かへのこだわりが薄くなっていることだろう。
 
帰りの電車のホームで「僕を形作っているのは後悔ではないか?」と考えた。テニスでも(特にテニスか)なんらかのプレイの後悔を背負っているから、修正行動に熱を入れる。
 
仕事の場合、失敗するエラー行動が僕には多すぎると認知し、それを防ぐ活動や頭にイメージのないものを手を動かすことで具現化できる経験を積んだ。そういう部分で仕事のフィードバックループは続き、なんとか仕事ができているようになっている。
 
テニスについては、ぼくは毎試合の記憶はさほどない。漠然と直前の何かや癖を意識しそれを修正しようとする。それか、何か目的のモデルがありそれに自分を近づけるようにしている。それならそれだけやっていればいいのにと思った。
 
家族や両親について話した時、ああこれはあとで後悔するタイプの回答をしたなと感じた。家族が自殺したときや家族の価値観についての質問だった。正直、もし家族が自殺をしたら立ち直れないくらいショックを受けると思う。
 
そんなときも僕はその人の考えを尊重できると思っているのかな。
 
なにはともあれ、なかなか楽しい経験でした。
 
P.S. 東京でインタビュー受けてくれる人を2、3人探しているようです。もし興味あればコメントかメッセージください。